最近、ちょこちょこ背中が痒い。
しかも場所が絶妙で、上から手を伸ばしても、下から手を伸ばしても、あと数センチのところで届かない。肩甲骨のあいだの、ちょうど真ん中あたり。
もどかしい。
右手がだめなら左手。上からがだめなら下から。腕をぐるぐる回して、あの手この手で挑んでみるけれど、結果はいつも同じ。指先が、空を切る。
なぜ、そこだけ届かないのか
届きそうで届かない、この感じ。人体って、よくできているようで、肝心なところが設計ミスな気がする。目はふたつもあるのに、背中に届く手は一本もないのだ。
気になったので調べてみたら、あの一点が届かないのにはちゃんと理由があった。
上から回すとき、肩は「腕をうしろに上げる」動き。下から回すときは「腕をうしろにひねって上げる」動き。まったく別の動かし方で、それぞれに限界がある。そしてその二つの限界がぎりぎり出会わずにすれ違う場所が、肩甲骨のあいだなのだそうだ。
設計ミスではなく、二つの動きの継ぎ目。腕の可動域の、ちょうど谷間。
納得はした。納得はしたが、痒いものは痒い。
掻けないと痒くなるのは、気のせいではないらしい
それにしても、掻けないとわかった瞬間に、痒みがちょっと強くなるのはなぜだろう。あれは絶対、背中がこちらを試している。
——と思っていたら、これも気のせいではないらしい。痒みというのは、意識を向けるほど強く感じるようにできているのだそうだ。人が掻いているのを見ているだけでこっちまで痒くなる、あの現象も同じ理屈だという。
つまり「届かない」と気づいた瞬間から、こちらは全神経を背中に集中させているわけで。自分で焚きつけていた。
ついでに言うと、背中というのはもともと乾燥しやすいうえに、自分でケアしにくい場所でもある。保湿しようにも、手が届かないのだから。年齢とともに乾きやすくなるとも聞くので、そういうお年ごろということなのかもしれない。健診で境界型と言われた人が同じ家にいる手前、あまり大きな声では言えないけれど。
あと、これは覚えておいたほうがよさそうなこと。爪を立ててガリガリやると皮膚が傷ついて、そこがまた痒くなる。掻けば掻くほど痒くなるというのは、本当にそうなるらしい。あまりに続くようなら皮膚科、というのが正しい大人の対応だと思う。
そろそろ、道具に頼るときかもしれない
そろそろ観念して、道具に頼るときなのかもしれない。孫の手デビューする日も、近いのでしょうか。
ちなみに調べたら、孫の手の「孫」は孫ではなく、「麻姑(まこ)」という中国の仙女が由来らしい。爪の長い美女の手。孫、関係なかった。
話にはちゃんと続きがある。ある男が麻姑の長い爪を見て、「あの爪で背中を掻いてもらったら、さぞ気持ちいいだろうな」と心の中で思った。そうしたら見抜かれて、こっぴどく叱られたという。心の中まで読まれるのは理不尽である。
ここから「麻姑掻痒(まこそうよう)」という四字熟語まで生まれている。意味は「物事が思いどおりに運ぶこと」。背中の痒いところに手が届く、あの感じが、そのまま理想の状態として言葉になっているわけだ。
そして「麻姑の手」がなまって「まごの手」になり、いつの間にか「孫の手」の字が当てられた。孫は、あとから入ってきた。
届かないから、道具が生まれた
そう考えると、順番が逆なのだと思う。
背中に手が届かないのは設計ミスなんかじゃなくて、届かないからこそ千年以上も前から人が道具を作ってきた、というだけの話で。ご先祖様たちも、同じ場所を掻けずにもがいていたことになる。
仲間がいた。それも、けっこうな数の。
デビューする前から、ひとつ賢くなってしまった。
——という話が、曲になりました。前から見ると抜刀直前のくノ一に見えるらしい、あの構えです。
🧊 中年まわりの悪あがきの話では、中年の悪あがき。もどうぞ。あちらは水槽の話です。
今日も角砂糖ひとカケ🧊
孫より先に、孫の手が来る。